同人誌『STURM』第五号 インタビュー(抄録)

1993年11月に京都大学11月祭で浅田彰と対談した二日後のインタビューです。1999年11月15日の掲示板でlacoさんから教えていただきました。
武田将明さん及びlacoさんから掲載許可をいただきました。この場にて感謝申し上げます。

『STURM』 第5号 1994年11月発行 編集・発行:武田将明

インタビュー:大澤真幸、岡崎京子、岡崎乾二郎、鷲田清一 編集:武田将明

岡崎京子さんのインタビューは1993年11月22日に行われたもので、リバーズ・エッジの連載途中になるのでしょうか、それからこのインタビューは京都で行われていますがその2日前に京大の講演会があって浅田彰氏と話をした(もともと古くからの交友がある)ようなことがちょっと書かれています。インタビュー全体の雰囲気としては少しつっけんどんというか醒めた感じで話されていて、その分本音がはっきりと表れている感じがします(この頃から作品の内容が重くなってくるので、意図的に隠されている部分もかなりあるでしょうが)。ただ浅田氏と会話したことが影響しているかもしれませんが。この本は資料的価値は高いと思いますが、雑誌の性格上一般の目に触れないでしょうから、著作権等の問題は発生したときに考えることにして、インタビューのダイジェストを書いてみます。(laco)

『東京ガールズブラボー』について

みんなで「いつ死んでもいいね」とか「この世の終わりが来たらステキだろうな」なんて 言っていて、(記号の)組み合わせのゲームの終わりを恐れずに遊ぼうという感じで楽しんでいた、そういう雰囲気を描きたかった/80年代後期には組み合わせも尽きてきて、アヴァンギャルドとかポップアートのようなものが新鮮さを失って、とりあえずみんな飽きちゃって、それからは、時代全体がコンサバティブな雰囲気になって、アメニティの追求が強調されていく。
結局、みんな時代は終わらないってことに気づいちゃったんですよね。
いわゆる主人公イコールわたしっていうのじゃなくて、複数の主人公というか、複数の進行の仕方ができたらいいな、と思う。
『ジオラマ』まではプーに毛がはえたような感じで、とりあえずおこづかいかせぎというか、ラブリーなものを描ければいいや、というところがあったけど、『ジオラマ』ではアマチュアがやみくもに自己主張しているのとは違ったやり方で自我を描きたい、というか、読者に対する押しつけをやってみよう、というふうになった。
(それまでの自分の身近にいるような人たちを主人公としたのと違って、)”pink”の主人公の由美ちゃんはわたしと全然違う人物だし、描いてて感情移入することもなかった。

『バージン』の絵について

やっぱイラストかなと思っていて、漫画なんてダサいし、漫画っぽくない描き方で書けないかなと思っていた/イラストレータ沢田としきさんのラフだけどセンチなコミックがすごく好きだったが、それをやろうとするとどうしても手塚治虫以来の漫画の流れから外れてしまうので、この路線は切らざるを得なかった。
漫画以外の表現手段には特に関心がない。文章を書くのは好きだけど、エッセイストとか呼ばれるのはかっこわるい。 出て数ヶ月もすれば古本屋に並んでいるっていうのは、やっぱり嫌じゃないですか。(エッセイストや小説家の)本業の方にも失礼だし、私自身もその点慎重ですから。

余白に言葉を書き込むことについて

自分の漫画は少年漫画の要素も入っているけれど、少女漫画の空間・時間の複数というか独特の使い方はこういうところに現れていて、これは私の根っこが少女漫画にあることを示す要素の一つではないでしょうか。
(どういうジャンルに属しているか)それはやっぱり少女漫画界のはずれ者ではないでしょうか(笑)。

少女漫画自体が最近ダメな状況について

『セーラームーン』ですか?(笑)ただ、あれは幼女漫画ですからね。あれは少女が母性的なものとか家族的なものと向き合うための通過儀礼というものではないから、そういう意味では、男の子みたく先が定まっていなくて、二つの選択肢を前にした女の子が、いったん立ち止まって自我と向き合うような感じのものは、少なくなってしまったのかもしれない/「家」の問題とか家族の問題とかは、きちんとやるとすごくおもしろいと思います。

『ハッピイ・ハウス』について

出版社が小さかったから、あまり売ってくれなかったよなぁ…/小学館や講談社で出したほうが強い。やっぱ、そういうのって、あるんですよ。作品のよしあしと関係なくて、出版社が小さいとあまり宣伝してくれないとか。
親子関係を描くのはおもしろいんですけれども、子供が「団塊の世代」の子供たちになるわけで、親はどこかで教育を放棄、というかあきらめちゃっているし、子供は子供で最初から個室とか携帯電話とか持ってたりするわけだから、そこで起こる親子間の空虚感(抑圧ではなく)みたいなものを描かなくっちゃいけないと思う。
物語っていうのは、あまりに収束しちゃうというか、固まりすぎちゃうので、そこからずれたいと常々思っているんですが、ただね、やってるとみんなお話になっちゃうんですよね。それがいつも不思議ですね/たとえば”PINK”では最後に主人公の男の子が事故で死んじゃうわけですが、あれが一種の「愛の悲劇」みたく受け取られてしまって、めんどくさいな(笑)と思って、(そのような問いに対していろいろと)かわしてきたんですけど、結局そうやって物語の中に収まってしまうんですよね。
(物語として読むという)読み取りのコードみたいなものがあって、そこからどうずれていくかというのが難しくて。おととい浅田彰さんと話して、人を殺すことはひとつのカタルシスとしてあって、そういったものに誘惑されるんですけど、それやっちゃうともうおしまいだな、なんて。はっきりいって「芸術」やってるわけじゃないし…

自作について

どこかで複数の顔をもつ商品として成立しなきゃいけないって意識はあります/漫画描いててしばしば感じるのは、メンタルな表現の苦悩というんじゃなくて、映画だったらカメラの移動、写真だったら焼きに相当する、技術的な悩みみたいなものですね。

いまどきの大学生に対して言いたいことは?

私の漫画をいっぱいかってー!そして人にすすめてー!(一同爆笑)/社会人と大学生という分け方をした場合、両者は対立関係にあるとされてるじゃない?…だけどそういう表面的な対立の一方で、大多数の学生がいつの間にかフツーの社会人になってしまったりする……一種の疎外を受けつつも社会と無関係にも生きていないというような複数性を意識的に学生が演じるというのはおもしろいんじゃないかな。
だから学生の立場からすると、企業の論理みたいなものから隔離されているということがイライラするところだったりするんだろうなぁ。一方で、企業のサラリーマンていったらさ、忙しくてほんと明日の打ち合わせとかそういうことばっかりで頭一杯になってしまう。だけどそんなことはっきりいって哀愁ってことで私は好きですけどね。
別に悲観的になることはないので、要はそれぞれの地点でいかに自分なりのバランス感覚を発揮し、複数性や横断性を身につけていくかということなんですね。

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